
夜中の二時近く、千鳥ヶ淵を臨み手すりにもたれながら夜桜見物に興じていると、向こうから女が一人こちらに歩いて来る。時々、歩道と植え込みを分ける縁石に上ったり下りたりして、ゆっくり、ゆっくりと歩いてくる。道の縁石側にいる私に触れんばかりに近づくと、くるりと私を回り込むようにして、すれ違いざま「きれいですねぇ」と空を仰ぎ見ながらつぶやいた。つられて「えぇ、月夜が…」と、言葉を返すでもなく返す私。街路灯の逆光の中で、黒っぽい不確かな容姿の女はそのまままた、時折縁石に足を乗せたり下ろしたりしながら、静かに、ゆっくり歩いていった。